(聞き手)
震災前には、どのような備えや対策をしていたのでしょうか。
(跡部様)
今まで、勤務中に災害を経験したことはありませんでした。
桜木地区は水害に弱いと聞いていたので、水が上がってきたときには天真小学校やソニー工場のような高いところに逃げようというような、漠然とした備えでした。
何年か前に、桜木保育所で、押入れの高さまでの水害に遭ったということですが、その時に私は桜木保育所に勤務しておらず、実際には経験していません。
水害対策工事もされていると聞いていたので、多少の雨なら大丈夫だと思っていました。
地震に対する避難方法は考えていたのですが、津波に対する避難方法はあまり考えていませんでした。
避難場所である天真小学校に行くときは橋を渡りますが、この川から水が溢れてきたらどうしようというような、その程度の思いだった気がします。
確かに避難マニュアルはありましたが、津波を想定してのものではありませんでした。もしもの時は、地域の方と一緒に天真小学校に逃げようという話をたまにしていました。
(聞き手)
発災直後の行動やできごとで、印象に残っている点はありますか。
(跡部様)
発災時は保育所の一番奥にあるホールで、翌日行われる予定だった修了式の準備をしていました。
そのときに揺れを感じましたが、最初はそんなに強い揺れではありませんでした。
ですが、徐々に揺れが強くなったので、保育室でお昼寝中だった子どもたちを起こしました。
その後、ホールに戻って片づけをしましたが、その間ずっと揺れていたので、保育室に戻って子どもたちを、保育所の隣のグラウンドに避難させました。
子どもたちは靴も履いて防寒着も着ていて、比較的、落ち着いていました。
その時には、もう、市役所はおろか、どこにも電話が繋がらなくなっていました。
私たちが避難してから10~15分もすると、そのグラウンドに地域の方やソニーの社員の方が大勢集まってきました。
それこそ何百人も、グラウンドがいっぱいになるくらいでした。
市民の方はとても不安そうでしたが、私たちも一緒だから大丈夫だと声を掛けました。すると市民の方も、子どもたちを守ると言ってくれて、お互いに声を掛け合いました。
雪はまだ降っていなかったのでそんなに寒くはありませんでした。
午後3時過ぎになると子どもたちのお迎えが次々に来まして、そこで引き渡しをしました。
食べるものはあまりありませんでしたが、リュックの中にあったクッキーやビスケットをちょっとあげたり、寒いからと保育所から毛布を持ってきたりしながら、お迎えを待っていました。
保護者の方々に連絡はつきませんでしたが、皆さん自主的に来てくださいました。
大きな地震や災害の時にはできるだけ速やかにお迎えをお願いします、と常に声をかけていたからでしょう。そういった対応は本当に早かったです。
仙台に勤めている方は当日のお迎えは難しい方もいましたが、塩竈市や多賀城市内に勤務されている方は、一気に集まりました。
機会があるごとに話をしていたので、保護者の方々もご理解頂いていて、あんなに早くお迎えに来ていただけたのだと思いました。
本当に次々と引き渡しができて、保育児童は全員で62名いましたが、最終的に14名だけが残りました。
(聞き手)
一番早くお迎えに来た方はどのくらいで到着されたのですか。
(跡部様)
地震発生が午後2時46分でしたが、一番早かった方は3時前でした。保育所から一番近いところにお住まいのお祖父様だったと思います。
他には地震発生の少し前、2時半頃にたまたまお迎えに来た方もいらっしゃいました。不思議と、通常のお迎えより早かった人がいました。
保護者への引き渡しが落ち着き、最終的に14名になっても、私達はなぜか、建物の中に戻ろうとは思いませんでした。そこにいた地域の方やソニーの社員の方は帰られ始め、「皆さん、もう戻られるんだね」と職員で話していました。
14名の子どもたちのお迎えを待つに当たって、職員の車をコの字型に並べて、その間にシートを敷きました。布団を何枚か持ってきて、ブルーシートで屋根を作ってお迎えを待つことにしたのです。
ちょうどその頃、雪もちらついてきました。
そうして、お迎えを待っていたら、おそらくソニー社員の男性の方から、「子どもたちが寒いでしょうから中へどうぞ」と言って頂きました。子どもたちがソニーの建物に向かったのを確認してから、私ともう一人の職員で、持ってきたものや必要な物をまとめていました。
ですが、まとめなくてもいいかなと思い直して、私達もソニーへ走ったのです。
そのときに、グラウンドが濡れているのに気がつきました。
ラジオでは大津波警報の情報はありましたが、避難を指示する情報が私たちには伝わりませんでした。
ラジオも聞こえたり聞こえなかったりで、仙台港に津波が来ているという情報が入ってきませんでした。
仙台港はすぐそこだというのに、避難行動に繋げられませんでした。ラジオの情報も途切れ途切れで、なかなか伝わらず、みんなの会話の中で状況を判断するしかありませんでした。
(聞き手)
まさか、津波が来るとは考えていなかったところもあったのでしょうか。
(跡部様)
それもありました。ソニーの西門へ走っていた時、靴が濡れているのに気付きました。どうして濡れているのかと思っているうちに、足首、ふくらはぎ、ひざまで水が来たのです。
西門を目の前にしたところで急に水かさが増して、津波に呑み込まれてしまいました。
津波は正面から受けました。ガードレールに足をかけたかったのですが、そのガードレールも津波で押されていました。
私は水中で一回転しましたし、私の後ろにいた方も何回転もして流されました。
その間はコンテナなど色々な物が流れてくるのが見えて、軽自動車が二台並んで流れてきたときには挟まれるかと思いました。
私は泳げないので、このまま流されたら死んでしまうと思いました。そうして数十メートル流されたところで、グラウンドのフェンスが道路沿いに見えました。そのフェンスの上を歩いている青年がいて、「助けて」と言ったら、「とにかくフェンスに上がれ」と言われました。
軽自動車やダンプカーなども流されていましたが、私は丸太に押される形でフェンスに掴まることができました。
たまたま電柱があったので、足をかけながら必死にフェンスの上まで登りました。
フェンスの向こう側を見たら、もう一人の職員もそこに登っていました。お互いに流されていた時は必死でしたが、フェンス上で会えた時にはほっとしました。
ただ、水かさが自分の身長を超えていたので、万が一、水中に落ちたら、戻って来られなくなると思い、フェンスにしっかり掴まっていました。
そして、すごく雪が降ってきました。流されているうちに、靴やジャージがなくなってしまったので、とても寒かったです。
両手の指が、各々三本ずつ麻痺してしまって、力が入りませんでした。ですがこのままでは死んでしまうと思い、周りの方と声を掛け合いながら耐えました。
そこで、ふとグラウンドの中を見たら、野球のバックネットに上っている方が見えました。道路の方向には、また別の職員が、車のボンネットの上に立っていました。
後で聞いたところ、子どもたちを避難させた後、保育所に何かを取りに戻って流されてしまったそうです。私たちは流されてしまったけれど、子どもたちを無事避難させられたのはよかったと思いました。
(聞き手)
子どもたちをソニーに避難させてから、流されるまでの時間はどのくらいでしたか。
(跡部様)
5~10分でしょうか。それ以上グラウンドにいたら、子どもたちは津波にのまれたかもしれませんし、私たちも助けられなかったかもしれません。
後で聞いた話では、ソニーの外側階段を上がっている最中に足首まで水が来たため、地域の方が子どもたちを救い上げてくれたそうです。
子どもたちも間一髪でした。
(聞き手)
フェンスの上に仮避難をしてからは、どのようになりましたか。
(跡部様)
何時ごろだったかはわかりませんが、フェンスの上に6人がいました。互いに声を掛け合っていたら、消防署のボートが来てくれました。まだ水に浸かっている人たちを、先に救助してくださいと言ったのですが、そこへは行けないので、まずは私達から救助しますと言われました。
桜木花園幼稚園の二階に入れば大丈夫だと言われて、そこへ向かいました。ですが幼稚園は色々な瓦礫で埋もれて入れませんでした。
そこでたまたま、ソニーの門の少し奥で作業用の足場が組んであったので、そこへ移してもらいました。
グラウンドにいた、他の人たちは、自衛隊のボートに助けられて、国土交通省の建物に入れて頂いていました。
私たちは足場の上にいたのですが、今度は製油所の火災が目前に迫ってきていました。
火の手がこちらまで来たらお終いだと話していて、何とかソニーの建物に入れないかと試してみましたが、駄目でした。
飛んでいたヘリコプターにも呼びかけましたが、気付いてもらえませんでした。
結局、巡回のボートに助けて頂いて、幼稚園の二階に入れた時には、もう夜中の三時半ごろになっていました。
部屋の中で、同時に助けられた6人で肩を寄せ合っていました。
見ず知らずの方たちでしたが、いくぶん心強い思いでした。
ただ、火事になってしまったら、もう駄目なのだと話したことは覚えています。
幼稚園の中には何百人もの人が避難していて、そこで初めて、荒浜に何百ものご遺体があるというような震災の様子をラジオではっきり耳にしました。
(聞き手)
発災から12時間以上後に、やっと安全な場所に行けたということでしょうか。
(跡部様)
そうです。携帯電話は泥をかぶって使えないので、どこにも連絡がつきません。
ただ、子どもたちはみんな、ソニーに避難できたんだろうと思い、そこは安心しました。
明るくなったら、幼稚園の二階から桜木保育所が見えました。
次の日もなかなか水が引かず、降りていける状況ではありませんでした。何しろ、その辺りはガレキや車が流れてきていました。
ただ、何故か保育所の庭だけは、大してガレキが流れてきておらず、逆に、幼稚園は車が教室に突っ込んでいたりして大変だったようです。
何日か後に保育所に入ってみたら、壁の高いところに津波の線が付いていて、もし、保育所にいたら、とんでもないことになっていたのだと思いました。
(聞き手)
当時の対応でうまくいった事や今後の課題などがあれば教えてください。
(跡部様)
第一避難場所であるグラウンドまでは行けましたが、主に火事を想定した避難訓練をしていたので、高台に逃げようという想定まではしていませんでした。
あれ以来、その点は考えるようになりました。
私が、現在勤務する笠神保育所は、近隣に建物が多いので火事は怖いのですが、逆に高台なので津波は来ないだろうといったように考えています。
ですが、気仙沼市や南三陸町の高台には津波が来たので、もしかしたらの想定はしないといけないのかもしれません。
それから、あのときに、保育所の中に何故入らなかったのかが不思議です。
普段の訓練では、一時避難場所に到着して、何事もなかったら、すぐに、保育所に戻っていたのです。
もし、あの日も同じように戻っていたら、大変なことになっていたでしょう。
誰一人、保育所に戻ろうとは言い出しませんでしたし、今になってみれば、その判断は良かったんだと思います。
(聞き手)
保育所に戻らなかったのは、何かを感じてのことだったのでしょうか。
(跡部様)
どうしてなのかと今でも思いますが、戻ろうという余裕がなかったのではないでしょうか。
あの限られた時間内で、高台に行くとしたら、どこに行ったかという話を職員でたまにします。
ですが、車ではどこにも行けませんでしたし、全員で歩いて行くのもとても無理だったと思います。
お迎えに来た保護者の中には、渋滞しているというお話をされる方もいましたので、車での移動は、やはり駄目だと感じました。
子どもたちを、無事に引き渡したいという気持ちも強かったですし、グラウンドにいれば、災害に遭わずに済むと思っていた方も、私達を含めて多かったので、あの場にいました。
(聞き手)
避難訓練は定期的にやられるかと思いますが、その後、避難訓練では津波を想定するようになりましたか。
(跡部様)
平成23年3月に桜木保育所が休園になった後、同年6月に笠神保育所に異動しました。
津波を含めた地震訓練はしていますが、中には津波という言葉だけでも刺激になってしまう子がいます。
震災時、お迎えに来たお父さんと家まで帰ろうとしたら、車の中に水圧で閉じ込められてしまった子がいました。
平成23年度は「津波」という言葉の使用は、できるだけ避けてきました。
ですが、津波が来た時の研修だけはしました。
災害時は、特に子どもたちは不安になって泣いてしまうので、私たち大人が毅然と動くことが大事だと思います。
当時は津波ごっこという遊びがあって、子どもたちが遊びながら泣いているのですね。
かといって、その遊びを制止できない時もありました。
津波ごっこは自然になくなってきましたが、子どもたちの心情を思いやり、当時の訓練は、地震はあるが津波は大丈夫だという訓練をしました。備蓄の確認や避難経路の確認は、職員の研修でしました。
(聞き手)
多賀城市の、今後の復旧・復興に向けての考えや意見はありますか。
(跡部様)
様々な方々から復旧復興のお手伝いを頂いて、本当に感謝しています。たまにテレビで映像が流れたりすると、多賀城市も被害が深刻だったのかと聞かれますので、大変な被害を受けたとお話しています。
応援していただいている方々のお力添えで、苦労しながらも復旧してきていると感じています。
仮設住宅に住んでらっしゃる方は、一刻も早い復旧を望まれている方も多いですが、市でも精一杯やっているように思います。
少しずつしか復興が進まないのは、実際にご自宅を流されてしまったような方たちからすればもどかしいでしょうが、職員一丸となって進めているので、頑張っていくしかないと思います。
(聞き手)
今回の震災から、後世に伝えたい事や教訓などはありますか。
(跡部様)
日頃からの避難訓練、防災訓練の教育を充実することが一番だと思います。
子どもに不安を与えない教育と、私たち大人の訓練が必要だと感じています。
子どもたちは職員に従ってくれるので、その子どもたちを守るために、ミスのない指示や行動をしないといけないという話をいつもしています。
マニュアルはやはりマニュアルなので、それをどのように活かしていくかは、日頃から検討していかないと、いざという時の連携が取れなくなってしまいます。
保護者や職員同士の連携は、本当に欠かすことはできないと思っています。
(聞き手)
防災訓練はどのくらいの間隔で実施しておられますか。
(跡部様)
防災訓練は月1回避難訓練しています。地震、火事、不審者対策など、そのどれもが、職員がまずは率先して動けないといけません。
そういうことでいえば、やはり、職員の訓練が一番大切だと思っています。
(聞き手)
避難訓練は、どのような方法で行っているのですか。
(跡部様)
いつ災害が起きるか分からないので、時には、普段と違う時間、例えば、朝のお送り、帰りのお迎え時に訓練を実施したりして、保護者の方々に協力してもらいながらの避難行動をしています。
「こんな風にしているのですか」と皆さん驚かれます。
マイクを使って、揺れのような音も出すので、保護者の中にも不安になる方もいました。
練習なので、できるだけ不安を与えないようにしていますが、いつでも震災は起こりうるという点で、このような避難訓練に対してのご理解を頂いています。
(聞き手)
保護者の方も巻き込んで、夕方の訓練を実施されるのは凄いですね。
(跡部様)
「参加してください」という呼びかけではありません。私たちの計画で訓練を実施して、その中でたまたま居合わせた保護者の方に、「今、避難訓練をしていますのでご協力をお願いします」と伝えています。
このような形ですので、全員に参加のお知らせはしていません。
その代わり、そのような訓練をこまめにやるようにしています。
(聞き手)
これまでの質問以外で、何か話しておきたい事はありますか。
(跡部様)
桜木保育所が休園になって以降、桜木地区から引っ越しされた地域の方や、新しくご自宅を建てて生活されている方もいます。
桜木保育所も同じ場所で、復活してほしかったという思いはあります。
桜木保育所は休園になりましたが、子どもたちも職員も私も、各保育所に分散して新しいスタートを切ることができました。
ただ、震災の日の3月11日で繋がりがぷつんと切れてしまったので、そこが残念です。
平成25年9月頃から桜木保育所園舎の解体が始まったことを、保護者の方たちや職員に伝えたりしながら、桜木保育所の最後に関わることができたという思いもあります。
平成25年6月9日に桜木保育所のお別れ会をして、そこで気持ちにひと区切りをつけました。
私達が避難したグラウンドには、桜木災害公営住宅が建って、その2階の一部に新生の桜木保育所が入る予定です。
あの地域には保育所が必要だと思いますので、そこにあれば、地域の方々の助けにもなると思います。